無題。
自分が生きているということは、どういうことなのか考える。
「生きる」ということに無頓着だったこともある。
それは「ただただ生きていたから」かもしれない。
今、何かが劇的に変わったわけでは無いけれど、
私の大切な人は死んで、
私は生きている。
私の大切な人は、自分の不安の思考から抜け出せなかった。
そしてわたしは今、自分の不安や自己否定と向き合っている。
正直に言うと、しんどいのだ。この状況は。
自分に負担がかかることはしない。自分のできそうなことしか取り組んでこなかった過去がある。
それは、「自分にはできない」というわたしの思い込みから、自分のできそうなことしか挑戦(果たしてそれを挑戦と呼ぶのか)してこなかったから。
でも、そんな自分に気づいてしまい、同時に「自分にはこんなもんじゃない」という心の躍動を感じ、思い切って自分の能力以上を必要とする職業についた。
どんな仕事かというと説明が面倒なので省くが、簡単に言うと「孤独で正解のないパイオニア的職業」。
物事にある程度「枠」がなければ安心できない自分にとって、強烈に過酷なのだ。
「できない自分」を思う存分認識し、今まで他人の期待に応えることで保ってきていた自分の存在意義が感じられなくなっている現状。
つらいことだらけ。
そんな状況に立たされた時、自分は鬱になるタイプの人間だと思った。
そういえば、高校の時も片足踏み込んでいたこともある。
でも、そんなことを客観的に考えることができるくらいの余裕はあるのかもとは思う。
死んだ大切なあの人と、器質的には似ているのだ。
あの人は死んだ。
私は生きている。
この差はそんなにもないのかもしれないと思った。
今日は12月にしては暖かった。
ひんやりとした風にあたり、生きていると感じた。
地面を踏みしめる。
生きていると感じた。
月がきれいだった。
わたしは生きている。
心の声をとりもどしていく
世間の常識に合わせる。
世の中が提示する「フツー」に沿って考え、生きる。
わたしの頭の中で「フツー」は「正しさ」に書き換えられ、
「こうすることが正しい」と、世間の軸で行動する。
正しさから離れることが怖くて、否定されたくなくて、
一生懸命に「正しさ」を振る舞うのだ。
自分を否定されたくない思いから、世間体を守ることに必死になり、
自分のほんとうの想いはどんどんその不安の渦に飲み込まれてく。
「フツー」に上塗りされていく。
「自分を否定されたくない」という思いを抱えているということは、
同時に「自分は否定される存在」なのだという妄想を膨らましているとも言える。
そして、そんなことを考えている自分を自分で否定していたりするのだ。
それは今まで意識せずともやってきた条件反射のようなもので、無意識に自動運転的に無限ループしていたりする。
自己否定でもなく、自己肯定でもなく、自己を受容すること。
たぶんこれがポイントなんだろうことはわかっていても、自動運転的に自己否定してきている習慣は、そんなに簡単に変えられることではない。
でも、自分を生きられるのは自分しかいないのだ。
自分をわかってあげられるのは自分しかいないのだ。
わたしを愛せるのはわたしなのだ。
だから、わたしはわたしと向き合いたい。
いつになく、乱文だなー
1年を振り返るあなたへ〜反省という名の自己否定をストップ〜
12月。師走。
この季節になると1年の締めくくりとして今年の1年を振り返ることが多くなりますね。
テレビや雑誌で、今年の総集なんかをやってたり。
1年の振り返りとなると、あなたはどんなことを考えますか。
悩みの真っ只中にいるあなたであれば、
もしかすると「振り返り」という名の「反省会」になるかもしれません。
あれもできなかった、これもできなかった、こんな失敗をした、落ち込んでいた時期が長かった…
ぐるぐる、ぐるぐる、ずーん…
実は、人間というのはもともと不安や恐怖を感じやすいです。
ポジティブよりもネガティヴな思考に陥りやすい。
人間自体にそのような傾向がある上に、ただいま絶賛絶望中!のあなただったとしたら尚更です。
自分がフォーカスした感情や考えが現実を構成していくので、「あれもこれもダメだった」とネガティヴな部分ばかりに注目してしまったとすると、最終的に「ダメダメな2018年だった」と結論(意味付け)を出してしまうかも。
そして、結果的に「あーなんてダメな自分なんだ」と自己否定に陥ってしまうのです。
心当たりありますか?
ええ、わたし自身もバッチリその傾向ありです。笑 だからこそ、この記事を書いています。
自己否定するのは人間の宿命です。
自己否定ができるのは地球上で人間だけなのです。ですので、反省からの自己否定に走ってしまう人は多い。
マイナス面に目が行きがちというのが分かればこっちのもんです。だったら、プラス面を捉えられるようにすればいいのです。
というより、実際にはマイナス&プラスはコインの裏表のようなもの。ひとつのネガティヴな出来事でも、見方が変わればポジティブになるかもしれませんね。
無理にポジティブにしなくても、ニュートラルな意味づけでもいいですよね。
今年のあなたの人生はいかがでしたか?
ダメなことばっかりじゃなかったと思います。
悩んだからこそ出会ったものもあったはずです。
失敗したから経験になったこともあったと思います。
そして何より、今あなたが悩んでいるのは、自分と向き合っているから。
「わたしはこんなもんじゃない」って心の奥底で知っているから、もやもやしたり自己否定したりしちゃうんです。
そんなあなたは、ステキです。
そのあなたで越えていけます。
きっと、だいじょうぶ。
あなた、今日を生きてくれてありがとう。
残りの2018年も生きましょう。
元気を出す方法?無理に元気を出さなくてもいい。
「無理に元気をださなくてもいいんじゃない?」
これが、今日あなたに贈るコトバ。
元気でいること、明るく前向きであることが良しとされる世の中。
ふさぎ込んでいれば、「元気だしなよ」って言われるんだろうし、
自分の中でも「元気ない自分」を認識すると、「落ち込んでちゃだめだ!」とか思っちゃう。
悲しい感情って抱いたらだめなの?
ほんとはそんなことないよね。
感情そのものに良し悪しなんてないのだ。
大切なあの人が亡くなって、1年が経ちました。
その人を良く知る人が、「やっぱりこの時期は悲しくなるなぁ」と。
一週間、気が重い。
遊んでみたり、仕事に精をだしたり、なんとかごまかそうとするんだけど、悲しい気分は晴れない。
そうやって、頑張って元気をだそうとしている姿に出会った。
「無理に元気出さなくていいんじゃない?」
そういうと、その人は驚いた顔をして繰り返した。
「元気をださなくてもいい…!?!?」
そうだよ。
喜びがあって、悲しみがあって、
もっと彩とりどりの感情たちがいて、
わたしたちはつくられているんだから。
どんな感情と一緒に大切なあの人を思い出すのかは自由だ。
たくさんの楽しかった思い出と、失った悲しみ。
どっちが強いかなんてわからないけれど、
どっちもあなたが居たから沸き起こる感情なの。
その感情たちがあの人がいたことの証なのかもしれないね。
ほんとうはどっちでもいいんだよ。
悲しみに暮れても、無理に笑顔をつくっても。
どっちでもいい。
それでも、ずっと悲しんでいるのはだめだとか、そんなふうに片方を否定するのではなく、自然に湧いてくる感情を受け止め、受け入れ、まるっと包んで次にいきたい。
わたしはそう思っています。
そうやって、自分と向き合っています。
さぁ、今日も生きましょう。
あなた、今日も生きてくれてありがとう。
心の中にいる「小さなあなた」は何と言っていますか。
自分に一番近い人にこそ、出せないものがあったりする。
私の場合は、親の前では「泣けない」「弱音を吐けない」というものだ。
いつからだろう、そうなってしまったのは。
自分でも思い出せないから、親に聞いてみたことがあった。
すると、小さい頃か泣きじゃくって親を困らせるということが比較的少なかったと、母。
いつからそんな聞き分けがよくなってしまったのか、小さい頃の自分を少し不憫にも思ったりする。
最近、仕事や活動でチャレンジすることが多くなってきた分、自分(の認識)と向き合う日々が続いている。そうすると、心の奥でちらちらと見える姿があるのです。
膝を抱えて座る小さな自分。
「これ以上傷つけないで」
「わたしにはできないんの」
ここまで来て助けてほしい、と。
そんなことを言っているように感じた。
そんな自分がいたということを、薄々は気づいていたのかもしれない。その子が「言葉」を持ち始めたのは最近のことだけれど。
実際のところ、現実世界で頑張る自分は、その子とは正反対なのだ。
なぜ正反対かというと、この子を守っているのかもしれないと、最近は思うようになった。
小さくて無力な自分を、「できる自分」が守っている。
既に傷ついて、既に無力感に苛まされている小さな自分に、これ以上傷を負わさないように。表舞台で一人で頑張っているのが意識上の自分だったりするのだ。
だから、しんどい。だから、いつもどこか不安。
不安な状態を見せまいと、もともとが不安・恐怖からの出発だから。
自分の中の小さな自分に気づいたのなら、することは一つだった。
その子の声を聞いてあげることだ。
(インナーチャイルドを癒すというのはこのことだね。)
なんでそんなところにいるの?
何があったの?どんな気持ちでそこにいるの?
何をしてほしい?
心の中で寄り添う。その子の輪郭がはっきりしてくると、その子の願いが見えてきた。
「お母さんの前で泣きたい」
あぁ、このままの自分を受け入れてほしいんだ。
何もできない無力な自分、他者から何も評価されないままの自分。そんな小さな自分をただただ表現して、受け止めてほいい。
親に。母に。
一番受け止めてほしい相手に、そうしてもらえなかった傷があったんだと思う。
だから、一番素直になれない相手が親だったのだ。
小さな自分の思いに気づいたら、その思いを大切に、できることからやっていく。
まずは、自分だけで泣いた。
自分で自分の思いを受け止めた。
ずっと一人にしててごめんねと。
小さな自分を守るために他者評価と戦う自分ではなく、小さな自分と今の自分を統合して一緒に生きていこうと思った。
それは自然にそう感じたのです。
それが「わたし」を生きるために大切なこと。
ひとりじゃない。一緒に考えよう。
行き詰った時、それはたぶん1人で頑張ろうとしている時。
自分1人で答えをださなければならない。
これくらい自分1人でやらなければ。
以前の私は人を頼ることも、これくらいのことを相談していいことも、
気持ちをもっと出していいことを、ただただ知らなかったのだ。
悩みは人に言うものではないと、
誰かに話すという手段さえ持っていなかった私は、
多くのものを自分の心にしまいこんで、生きていたと思う。
「これ、教えてください」
「すごく不安なんですよね」
と、わからないことをすぐに人に尋ねることができるようになった今の私。
「不安だ」と他人にサラッと打ち明けた時には、
「ん?自分なんて言った?」と一瞬違和感を覚えるくらい、
自分には身近ではなかった行動がとれるようになってきた。
昔の私は人前で弱音を吐くこともなかったし、
ある程度ひとりでやるべきだと思っていたから助けを求めることもほとんどなかった。
したとしても、ほんの特定の人だけだった。
今はというと、自分の悩みや詰り感を解決するには他の人の観点が必要だということを知っているから、仲間を頼ることができる。
良い悪いなし・ジャッジなしで受け止めてくれる人がいるから。
ジャッジなしの世界から相対世界での良い悪いが生まれる仕組みを知っている人たちなので、あたまから否定されることはない。
自分を苦しくさせるのは、いつだって自分の思いこみ。
ひとりで考えると、ぐるぐるぐるぐると迷宮入りしやすい。
悩んでいるのは、自分は本当はこんなものではないと、本当のあなたの心は知っているからなのかもしれな。
理想があるから、もっとやれるって思うから、現状とのギャップを感じて苦しくなる。
ひとりは限界なのです。
あなたはひとりじゃないのです。
いきましょうよ、その理想へ。
いっしょに。
#nTech
#認識技術
安心して悩もう
なんとなく、やる気が起きなくて、
なんとなく、不安になる
たぶん、きっかけはあったんだろうけど、なんでこうなったのかを探ってはみるもののよくわからないことが多い。
でも、心のどこかで分かっていて、
大抵は、今の状況を何かと照らし合わせて、
「できない自分」にフォーカスを当てていたり、
「誰かから低い評価を受けたくない」と身構える自分が居たりする。
動かなければ、これ以上自分が傷つくこともないし、チャレンジしなければ、失敗する自分を見せることもない。
そうやって、自分を守ってきたんだと思う。
守っているつもりでも、実はその状態はしんどくて、何にもできない自分を認めてあげることができなかった。
他人と比較して辛くなっているところもあるのに、さらにその状態を自己卑下する。
そんなふうに、ぐるぐると考えの中に引きずり込まれることがよくあった。
それは、今でもある。
だけど、今までと違うところは、この現象を仕組みで理解することによって、自分と考えのを切り離すことができるということだ。
これまでは、自分の考えのパターンにハマると、底なし沼のように、沈んでいってしまっていたし、その状態になることが恐ろしかった。
なぜなら、こんな自分のままでは生きられないんじゃないか、という漠然とした不安がつきまとっていたから。
でも、今では安心してぐるぐるすることができる。
それは、ぐるぐるすることには意味があって、
そしてそこから抜け出せるということを知っていて、そして抜けた後には自分が成長しているということが分かっているから。
全てを仕組みで理解し、
仕組みで解決する。
その安心の世界を味わったから。
#あなたを生きる #nTech #認識技術 #問題の根本解決