あなたへのコトバ。

「あなた」だけど、わたし。それでも、生きよう。生き合おう。これは「わたし」を生きるプロセス。

過去分析と未来志向。そして、自己内統合と今ここの選択のバランス

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お悩み相談において、悩み発信者や受け応える側の現在地や認識によってこの要素たちのバランスが色々なのがおもしろい。

 

過去分析とは、現在の自分の中で繰り広げられる認知や自動思考パターンの原因を過去にさかのぼって分析すること。または、なぜ自分がそのように感じるのかを自分の特性や物事の捉え方に理由を求める行為。

 

未来志向とは、原因分析ではなく、どんな自分になりたいか、どのような解決イメージを持つかを中心に据える。過去は変えられないが物事の意味づけや行動の選択は変えられるというスタンス。自分を悩ます問題から手に入れたい未来の自分イメージへと認識世界をシフトしていくことで現実の問題を小さくしていくこと。

 

自己内統合とは、(いろいろあるんだろうけどここではざっくりと)過去分析で得た原因を包み込んで、未来志向のなりたい自分像へとつないでいくこと。原因を抱える自分を否定せず、無視せず、過去と未来の自分を現在で統合すること。

 

今こことは「真理・真実」のこと。

自分が調和の一部ではなく、分離した個体ではなく、調和を生み出している主体であることを理解すること。この世がホログラムであることを理解し、自分が自分の認識世界の設計者として生きること。これは、まぁ、置いておこう。笑

 

これは現在の宝本いつみの解釈。

上記のどの項目を重点的に活用しているかは、その人の人生のステージによってそれぞれだと思う。

 

選択肢に間違いはない。自分がどの項目(複数も)でどのように向き合っているかが分かっていれば誰かの正解は今の自分のベスト選択ではないかもしれないし、その逆もあると言うことだったりするんだろう。

自分がどの項目と向き合うことが必要かを理解すること、そしてバランスが大事なんだと思う。

 

 

生きづらい原因はなんだ。人生上手くいかない理由はどこだ。

この考えや、このループに陥る原因はなんだ。

そうやって、自分を痛めつける自動思考(条件反射的におこる自分の中の認知・思考パターン)と向き合うこともある。

 

人間の脳が切り取る相対世界では、多くのものが「因果」の秩序の中にある。

自分がなぜこのような思考回路を持ち、なぜこんなに自己肯定感が低いのかと、結果に対する原因を探したりする。

 

その人の人生を陰で支配するのは(自動思考をつくりだしたのは)、その人の無意識奥深くにある「自己や世界に対する規定(アイデンティティ)」。信念とかビリーフと言われたりする。

自分がよく引き起こすネガティブループや出口のない考えのぐるぐるは、最終的にこの「アイデンティティ」に帰結される。人生における悩みの根本原因はだいたいこのアイデンティティさんだったりするのだ。

 

「私は誰にも愛されない」というアイデンティティを持っていれば、そのような認識で世界を切り取り、それに見合う情報を引っ張ってきては、最終的には一人になる現実をつくりだす。そして「やっぱり私は誰からも愛されないのだ」と結論づける。

 

自分の認識世界の中で繰り広げられる、反射的な思考が働くたび、

「どうしてこんなことを思うのだろうか」と自己内省を行うことは大切だ。

大概は、幼少期の親との関係でつくられているため、それが分かるとスッキリすることもあるし、自分の思考パターンに気づくことで客観的に自己を見つめるきっかけとなる。

自分のパターンや信念を知らなければ、自分の意識ではなく無意識(自分のパターン)に支配された人生を送ることになるからだ。

 

かといって、自己の過去分析に没頭するとどうなるか。

簡単に言うと、思考が未来に向かない。広がりをもたない。

自分の中をどんどん掘っていく作業なので、それは致し方なかったりする。

自己分析の中でぐるぐると自責回路が働きだすこともあるので一人でやりすぎるのは要注意だったりする。

 

一方、未来志向はというと。

とある事象を「問題」として認識している主体がいるから、その事象が「問題化」するというのがこの世の摂理ですね、はい。だから問題自体は扱わずに、解決につながる行動に注目する。(ざっくりだなー)。ソリューション・フォーカスド・アプローチっていうのがあるから気になる人は調べてね。

過去の原因を無視すると、自分の片割れが置いてけぼり状態になることもある。

過去の自分とは巷で言う「インナーチャイルド」のことだと思う。上手くつないでいければいいんだけれども、現在の自分のアイデンティティとあまりにもかけ離れたことをする自己内矛盾が起きて苦しくなったりもする。傷ついた小さな自分を鞭打ってひたすら走らせてる全身中毒のみなさんはお気をつけください。

 

 

自己内統合は、過去の自分と未来の自分を現在で統合すること。とかって、かっこつけて言ってみたけど、どっちかっていうと、過去の自分と現在の自分を「現在」で統合することかしら。だんだんね、書いていて疲れてきたし、眠くなってきた。お風呂も入りたいし、でも「今書ききりたいんだ!」という私の欲求を最大限優先させてあげようと思う。クオリティは後回しだ。

 

自己内統合は過去分析とともにやればいいんだと思ったけれども、未来志向で行動を起こす中での違和感や葛藤(自己内矛盾)が出てきたときにもやればいいんじゃないかな。

自己内統合は今取り組んでいる最中なので、私の更新をお待ちください。最近、私が使う「許し」というキーワードは、この項目なのでしょう。

 

ここまで書いておいて「真理・真実」とのつなげかたが迷子になった。笑

他の3つの項目の土台に真理さんがあればいいんだと思う!うむ。

ここ、一番重要なんだけど、ね。もうお風呂に入るわ(/・ω・)/

 

どれからやるべきだということもないと思うし、べつにやりたくなければやらなくていいと思う。ただ自分が自分らしく生きることにおいて、どの項目も蔑ろにできないんだろうなぁと感じている。また、整理しよう。最近、私は物事の分析や整理が好きなんだと分かってきたよ。でも、実践しようと思うと結果がでるまでの道のりであきらめてしまうようだ。はは。おやすみ。

自分のために生きる

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今まで、じぶんのために生きてきたのだろうか。

じぶんを喜ばせるために、じぶんの好きを第一に、進んできたのだろうか。

 

たぶん、昔はそうだったんだと思う。

自分の欲求に従って、ただただ生きていたんだと思う。

 

「誰かのため」「何かのため」と言い出したのはいつだったか。

 おそらくそれも自分のやりたいことの一つだったんだろうと思う。

 

中学生の頃に世界の貧困や紛争について知り衝撃を受けた。

命の扱い方がこんなに違ってもいいのかと、わたしの正義感が動いた。

世界に出てみると日本のことが良く見えるようなって、

そして隣の友人の多くが心に闇みたいなものを抱えていることに気づいた。

 

今はなぜか、自分の心に向き合うことが最優先になっていたりする。

 

みんなが平和な心で生きること、そんな世界が実現するればと思って、

今の仕事についていたりするけれど。

 

誰かを助けること

誰かの背中を押すこと

それが自分のしたいことなんだと思っていたけど、

どうやらそうでもないんじゃないかと思い出してきて。

 

どうやら、自分が楽しんでいない。そんな気がする。

 

よく言う、あれです。あれ。

 

「自分のためが相手のためになればよい」

 

ってやつです。

たぶんこれがベストで、

 

「相手のためが自分のため」

というのは、後からしんどくなってくるんだろうと思う。

 

もちろん、それでやっていける人もいて。

相手が喜んでくれるから、自分もうれしいというのは普遍的な人の反応だとも思う。

 

自分が誰かのために役に立つこと・役に立ちたいと思うことは、関係性の動物である人間にとってなくてはならないニーズだったりする。

だから、それも大切。

 

わたしの場合、ポイントは順序だ。

 

先に「誰かのため」を意識してしまうと、苦しくなったり、すぐにやる気がなくなってしまう気がする。

 

もともと飽き性な私は、自分の「わくわく」や「おもろい」が持続しなければやる気が起きてこないらしい。

 

だから、誰かのためとか世界のためとか一旦置いておいて、

自分は何に対して「おもろい」と感じているのか。

 

ここに戻ろうと思う。

 

 

 

 

 

あなたを縛る心の中の「ねばべき」に気づく

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~せねば。~であるべき。

この「ねばべき」くん。

 

「ねばべき」くんが悪いわけではないし、

あなたが悪いわけでもない。

 

でも、この「ねばべき」くんを無意識に持っていることで、

それぞれのねばべき基準で相手や自分をジャッジしている。

 

一般的には「良い」とされる考えや行い、振る舞いさえも「ねばべき」に集約されていて、あなたを陰で縛り付けていたりする。

実は、それが結構あなたを苦しめていたりするのだ。

 

そして要注意は「キラキラ系のねばべき」くんだ。

 

あなたはどんな「ねばべき」くんを心に飼っていますか。

 

例えば、

・人はより良く生きるべき

・人は笑顔で生きるべき

・生き方の軸を持つべき

・自分らしさを発揮するべき

 

なんて、世間では自己啓発的に語られる「キラキラ☆ねばべき」くんだ。

 

ほかにも、

・自立して生きるべき

・悔いのない人生を送るべき

・仲間をたくさん持つべき

・一生懸命仕事をするべき

 

なんて、そこらじゅうにある。

こやつらは「キラキラ☆」でカモフラージュされているが、立派な「ねばべき」くんだったりする。

 

「こうでなければならない」と固定した瞬間、どんなに世間で称賛されている生き方や考え方であっても、それは立派な「ねばべき」くんに変身する。

 

そうなると、どうなるか。

自分で自分の首をどんどん絞めることになってしまうんです。

自分の心にある「ねばべき」理想に当てはまらなければ、あなたは気づかないところで自分を責めているだろうと思うんです。

 

笑顔で楽しく生きることがよい!(べき!)

なんて無意識で思っていたとしたら、壁にぶち当たって悩んでる自分に対して、さらに追い打ちをかけるように「笑顔で人生を楽しめていない自分はだめだ」なんて思っちゃう。

 

自分らしく生きるべきだ!

なんて強く思い込んでいたら、わたしの自分らしさって何だろう?なんて、あるようでない答えを探す長旅に出発してしまうかもしれません。

 

生き方や価値観に「良い悪い」もなければ、「ねば」も「べき」もありません。

 

そんなことは、言われなくてもわかってると思います、あなたも、そこのあなたも。

 

でも、固定観念だらけの中で生きてきた私たちは、本当にたくさんの「ねばべき」を持って生きています。それが無意識にあるから厄介でもあるんです。

 

一度、書き出してみて下さい。意識化しましょう。

「キラキラ☆ねばべき」には要注意ですよ。

 

正しい生き方など存在しないのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分自身に「ごめんなさい」

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私たちはびっくりするくらい自然に、そして自分でも気づかないうちに自分のパターン(出来事に対する自動思考・自動反応)を発動しています。

 

私自身、自分をよーく観察してみると、いつも誰かを責めているんですよね。

上手くいかないこと、できていないところを見つけては自分を責める。

そして、目の前の相手を責めているんです。

 

今でこそ、そうやっていることに自分で気づけるようになりましたが、

きっとずーっと小さいころから、そうやってきたんだと思います。

 

自分を自分で批評する。

相手を批評する。

 

自分を責めると苦しい。

誰かを責めても苦しい。

行きどころのない思いを、長年蓄積してきました。

 

自分のやってしまうパターンに気が付いても、その蓄積されてきたものは私の心にずっと横たわっていたのでしょう。

 

 

ほんとうは誰も悪くない。

 

 

「ひとつ」から始まった私たち個体のそれぞれの物語は、

人間の脳によって複雑に編みなおされ、「現実」として映し出されている。

 

あらゆる現象、感情、考えは、私の脳が創り出した「錯覚」でしかない。

それが「真理」であるとすれば、自分自身を苦しめているのは、紛れもなく自分の認識である、ただそれだけなのです。

 

自分が悪いから責めているのではなく、

相手が悪いから責めているのではない。

 

責めてしまう「認識」がある。

 

それを確認していく作業をしていると、

とてつもない「申し訳なさ」が心の底から生まれてきました。

それと共に涙が溢れてきたのです。

 

意味のついていない真っ白な存在に、私が勝手に評価して

「良い・悪い」をつけていた。

 

自分の一番の味方になるべき自分が、

自分自身を「できない奴は必要ない」と評価してしまっていた。

 

そのことにたいして、

「ほんとうに、ごめんなさい」と、そんな思いがあふれてきたのです。

 

自分に対して、そして今まで私に関わってくれて人たちに対して。

涙が止まりませんでした。

いろんな意味で、自分自身を許せた瞬間だったように思います。

 

ごめんね、わたし。自分で自分を責めてごめんね。

ごめんね、みんな。

ほんとは誰もが素晴らしい存在で、「評価する」こと自体が尊厳を傷つけている。

 

その真理がそっと、私の心にしみ込んできたようでした。

 

自分を責めなくていいんだ。

誰かを責めなくていいんだ。

 

ごめんなさい。

そしてそこから、「ありがとう」という感謝へ。

 

1時間以上泣き続けた後、

自分を責め続け重くなっていた心が、軽くなっていたのは言うまでもありません。

 

 

ごめんねー!

ありがとう!!!

愛しているよ。

 

これからもよろしくね。

 

 

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自分や他者を責め続けているあなたへー許す・百点満点からの出発ー

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自分を責めてはいませんか?

「こんな自分、だめだ。」

「人よりできていない自分、価値がない。」

 

自己否定して、気分が沈む。

そんな状態を感じては、さらに自分を責める。

「自己否定している自分、だめだなぁ。」

 

よーく、自分を観察してみると、常に自己否定していたりする。

 

意識上だけではなく、無意識でもずーっと。

自己否定のループの中をぐるぐるぐるぐる。

その中にずっといるもんだから、自分が自分を責めているなんてことにも気が付かなくなっていくのです。

 

そして、その矛先は自分だけではなく、他者にも向いていく。

ダメな自分をみる癖があれば、相手のダメなところ探しをしていたりする。

 

実はこれも、無意識で。

意識上では相手を褒めようと思っていても、本心はそうではない。

無意識では相手に対して激しいジャッジを繰り広げているのです。

 

自分も相手もジャッジし続ければ、どんどん苦しくなっていく。

 

心がギュッと縮まってしまっているのです。

相手を見ているようで、自分にしか関心がない。

 

そろそろ、責めるのをやめませんか。自分を許していきませんか。

 

「そのままの自分に百点満点をつけ

自分は百点満点だということを理解して

百点満点を基準に生きること

いいかな それが人間の精神的土台なのだ

そしてもし 間違ったなと気づいたら

手直しすればいい

そのように気づいた自分が百点満点…(中略)

 

大丈夫だよ

わたしが お前に百点満点を与えているのだ

その責任は わたしがとろう…(中略)」

 

『心がやすらぐ魔法のことば』山崎房一 著

 

他者比較し、評価し、差別をして自己否定に苦しむ人間へ、神様が語りかけるところです。

 他者と比べて自分は何点だと評価する。

できる、できないの指標で自分を何点だと評価する。

 

そうじゃない、そうじゃない。

それは、後付けの指標だ。

思い返してみて。

生まれたばかりの赤ちゃんの時、だれが自分を評価しただろう。

泣くことしかできない自分は、ただそこに存在していただけで百点満点だったはずだ。

 

そして、私たちは、調和そのものだったはずだ。

 

wordsforu.hatenablog.com

 

忘れているだけだ。

自分や他者を評価するいろんな価値観を身につけてしまっただけだ。

 

どんなあなたも、どんな自分も許そう。

 

「お前は生まれたときからそのままで百点満点だ


 自己否定するな」

 

 

あなた、今日も生きていくれてありがとう。

 

 

ワタシと宇宙

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そろそろ明らめよう。

この体が実存ではないことを受け入れよう。

あるがままの自分で生きる覚悟をしよう。

 

この宇宙は有機体/調和そのもので、

カラダの人間だけがワタシではなく、

その調和自体《調和を生みだす仕組み》《仕組みである動き》そのものが、

この宇宙の純粋な構成要素であり、本来のワタシなのである。

 

全てがワタシ。全ては調和。

何もかも満たされ、足りないものなど何ひとつない。愛だけがある。

 

分離も因果もない。澱みない、動き。

アナタはワタシで、ワタシはアナタ。

 

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全てを生みだす《ひとつの動き》が、創り出した壮大な宇宙と個体の存在たちの物語。

自分はダレだ、何かに出逢いたい、刺激がほしい、色んな感情を体験を経験したい…

その懇切な想いから幻の物語を創り出した。

張本人さえそのことを忘れてしまうくらい、リアルで美しいゲームを設計した。

 

そして始まった人間脳を装着した 個体の存在「ワタシ」のストーリー。

脳と5感覚で織り成す美しすぎる世界。

時にその世界で生きることは苦しみと絶望を生みだす。

しかしそれは私のせいではなく、誰のせいでもない。

《ひとつの動き》が設計した人間の初期設定であって、本来のワタシに出会うための作戦だった。

 

 今のそのままのワタシは素晴らしい
 今のそのままのワタシは価値がある
 今のそのままのワタシは愛されている
 今のそのままのワタシは認められている

 

すべてヒトツなのだから。

 

 

死んだあなたのおかげで。

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この世界は意味づけが自由だ。

自分が思いたいように思っていい世界。

だとしら、今、私が母(おかん)との関係を紡ぎなおせているのは、「あなた」のおかげだと思おう。

 

家族はむずかしい。

家族だからムズカシイ。

 

あなたがいなくなってから、私は実家にもどった。

これからの仕事のこともあったけれど、実家にもどるということが私の仕事のひとつだと思った。

 

あなたがいなくなってから、私は自分をどう生きようかと考えた。

悶々と考えたけれど、大した決断はできずに今の仕事についた。

大した決断ではなかったけれど、私にとっては「挑戦」であることは間違いなかった。

 

実家から通える。

実家から通うために選んだ場所なのか、そこだから実家に居る理由になったのかはわからないけれど、結果的に私は実家にいる。

 

実家は好きではなかった。

ここで理由を書くと、今書きたいことが最後まで書けないかもしれないから、そこには触れない。(わたしは言語的な困難を抱えていて(そう思っている、ただのコンプレックスだが)文章を書く体力がない)

簡単に言えば、弱音を吐けないからだ。

 

それは、親が悪いわけでも、わたしが悪いわけでもなく、

いろんな条件が重なって、私がそう思い込むように至ったということ。

 

そんな実家にいながら、新しい仕事を始めることになった。

この記事でも書いているように、今の職業は自分にとってものすごくしんどい。

 

wordsforu.hatenablog.com

 もともと自尊心が低く、劣等感が強い私にとって、

自分が「できない」状態というのは致命的なのである。

 

自分を責めて、どうしようもなく苦しくなる。

何もできない自分だと思い込みを強くする。

 

そんな状況は、心の奥にいる「小さな自分」を浮かび上がらせ、

今までのやり方(自分ひとりで頑張る)では通用しない現実を創り出した。

 

wordsforu.hatenablog.com

 

現実的に追い込まれていく自分の状況と「小さな自分」の想いが交差して、

「おかんの前で泣きたい。弱さをさらけ出したい。受け止めてもらいたい。」

という思いが募っていった。

 

そして、泣いた。

ただ泣かせてほしいと言って。

 

おかんは受け止めてくれた。そうやって一方的に、無防備に、ただ弱さをさらけ出すことは初めてだった。

途中から的外れな(私が欲しくない反応)言葉がけをしていたけど、おかんなりに受け止めてくれた。小さな自分と外面の自分が統合を始めた(ように思う)。

 

そこから時々とは言わず、度々わたしはおかんの前で弱音を吐く。

 

「がんばれ」

と言われたら、「1回がんばれって言ったら3回だいじょうぶって言って」と、励まし方に注文を言う。

 

落ち込んでいる私の傍らで、ひたすらその日にあった出来事をハッピートーンで話す母を静止させ、「話すぎちゃう?」と言う。

(聞くと、わたしを励ますために楽しい話をしていたらしい。まったくもって他人の楽しい話を聞いても励まされない。人と人の思い込みがどれだけ違うかを目の当たりにする。笑)

 

こうして欲しいと、伝える。

感情をそのまま出す。

 

これは私がやってこなかったことだ。

相手が家族だったとしても。

 

実家にいるから、この仕事を選んだから、あなたが死んだから。

 

もしかしたら、そうかもしれない。

 

あなたからのバトンなのかもしれない。

 

母に触れたいと思った。父に寄りかかりたいと思った。片割れの素直な表情が見たいと思った。そんなこと、今まで思ったことなんてなかったのに。

 

家族と繋がりなおす。家族との関係を紡ぎなおす。

 

それは、わたしを生きるために必要なことのように思う。

 

大切なあたなは死んだ。

あなたが死んだから、大切だったと自覚した。

 

この一年はたくさん泣いた。たぶん、これからも。